【視聴数 42859】
【チャンネル名 ゆっくりするところ】
【タグ ゆっくり解説,事件,事故,検索してはいけない言葉,ゆっくりするところ】
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あの日は揺れで目覚めました。夫が当時神戸に通勤していたので、何駅分か歩いていたそうです。数年たっても須磨の友達は枕元に靴を置いて寝ていると言っていたし、避難所生活を経験した人は、トイレがバケツだったから飲み食いは極力しなかったと言っていました。家が全壊し神戸を離れた人もいます。災害がなく暮らせるのはほんとにありがたいです。
当時、大阪に住んでいましたが、生まれて始めて体験する揺れで本当に怖かったのですが、インターネットなどもまだそれほど普及していない時代だったのですぐテレビで状況を確認しました。初期の報道では怪我人などの数もそれほど多くない人数で報道されていて、ひとまず安心して学校へ登校したのですが、帰宅後に見た燃え盛る神戸の街並みや倒壊した高速道路の映像を見て呆然としました。幼なじみが神戸市中央区に住んでいたので泣きながら電話したこともよく覚えています。幸いなことに、幼なじみの自宅は半壊でケガもなかったことでしたが、テレビでどんどん増えていく死者の数字がとても怖かったです。この震災によって失われた命は少なくないですが、建物の耐震基準が見直されたことなど未来に向けて防災意識もずいぶん変わったことが今後役立っていくことを切に願います。
この災害で様々な尊い命が失われ、多くの方の生活が困窮してしまう事態に陥ってしまったが、この災害が無ければ3.11や熊本地震でさらに多くの被害が出てしまっていた
失うものは多かったが、多くのことを学んだ瞬間でもある
今生きている私たちは、この災害を忘れず、大事な教訓としてこれからを生きていかなければならない
当時私は大阪府北部に住んでいました。
ドーンと言う音と共に身体が飛び上がりそれからテレビやタンスが倒れ停電…
停電回復にはそんなに時間はかかりませんでしたがTVをつけたら阪神高速が倒れていて怖くてブルブル震えながら泣いていました。現在火事が起こった区の山の上に住んでいますが向いの方から話しを聞くとベランダから燃えているのが見えたけれど炎と言うより黒い煙がその場所だけ上がっていたの…あれは一生忘れられないのよと…
そして後1~2時間遅かったらもっと亡くなっていただろうとも…高速が倒れた場所の下は国道2号線でいつも渋滞します。そこに高速が倒れてきたら•••それに列車も通勤ラッシュの時間ではなかった…あれからピピピと鳴るニュース速報や地震速報には敏感になりました。
震度2でも分かる時は分かるし怖い
震災翌年から引っ越してきて幼小中を大阪で過ごしたけど「ブロック塀からは離れる」「どんなに慌てても靴は必須」「テーブル自体がボロければ一緒に潰れるから注意」等たくさん注意点を教えて貰い、どれもすごく具体的でした。
みんなそれぞれその日どうだったんだ〜って子供ながらに言い合ってたり。忘れちゃいけないですね。
取り上げていただきありがとうございます。発生当時は6歳でした。揺れもそうですが何よりも火災がひどく水が止まっていたため消火活動もままならず。あの光景は一生忘れることがありません。
発生した時間帯が早朝だからなぁ。
まだ寝てる人が過半数やろうし…
1月二十日に打合せで神戸市役所(高層棟)に行って、一階ロビーの石貼りの床の上に敷布団1枚敷いて、その上でうずくまるお年寄り等おびただしい被災者を見て、二月からお盆まで仮設住宅の建築工事に従事しました。 職人さんや資材が足りないなかロビーの被災者を思いながら進めておりました。
今、直接、工事を進める職人が少なくなるばかりで台風災害等復旧工事の遅れが心配です。その上道路や水道施設等老朽化で直ぐに工事をしなければならないのに、予算が無いやら人材不足で出来ないとか!近々予想されてる東南海地震→大津波の対策、政府と行政に対し不安が募るばかりです!!!
阪神大震災当時はまだ小学生でした
テレビで流れていた映像が衝撃的過ぎて、今でも鮮明に覚えています
自分が生きている間に何度も大地震を経験するとは思いませんでした
でも、その後の復興していく姿に日本人の強さと逞しさを感じました
改めて犠牲者の方々にご冥福を申し上げます
親族、友人、同級生に人的被害がなかったのは不幸中の幸いでした。
あの地震は私を含め多くの人の人生を変えました。
現場であの惨状を目にした人なら皆そうだと思います。
「関西に地震は来ない」
皆がそう思っていたけど、この地震の前の年あたりから小さい地震は頻発しており、この前夜にもほんの少し揺れました。
震源が違ったので前震ということでもなかったのかもしれませんが、なにかの予兆だったのかもしれません。
この世のものとは思えない揺れ、音、放心状態だった時に親が「大丈夫か!」と声をかけた事で我に帰り、部屋の中のあまりにも異常な散らかり方を見てまた呆然。
テレビでは明るくなってヘリが飛ばせてようやく現場の状況が入ってくる有様。
ネットもない、ケータイも今ほど普及していない、メディアはテレビラジオと新聞だけ、様々な情報が錯綜する中で「本当の被災地」では何が正しくて何が間違っているのかの判断すらつかない中で本当に多くの方がご苦労なされました。
言いたいことは山ほどありますが、今はただ亡くなった方とそのご遺族に心を寄せたいと思います。
ボランティアを奴隷のように顎で使った所と聞いた!
あの時神戸から大阪へ必死こいて歩いて食料求めて大阪入りしていつもと変わらへん大阪の明かりを見た神戸市民の皆さんの安堵いうか涙が忘れへん。
救援物資と幕に書かれた空っぽのコープ(盛況)→のトラック走らせてたこと俺は一生忘れへんぞ。某辻元清美女史→こいつ自衛隊は憲法違反とか言って自衛隊入りを遅らせたことも忘れへんぞ。
真っ暗な神戸の街に暗躍してたレイプ魔と泥棒共の事も忘れへんぞ。
1995年と言えば安室ちゃんが大活躍した年。安室ちゃんと言えば白い厚底ブーツ。このブーツを作った会社が長田の履物会社で倒産しかけていた町工場は安室ちゃんのおかげで大爆急成長して行きました。
そして1996年春頃に大阪城ホールでコンサート。安室ちゃんは疲弊しきった関西を盛り上げてくれた立役者であり偉大な方です。
当時大阪に住んでました。
震度四で皿やラジカセが落ちた程度で済みましたが、父親の友人が神戸に住んでて皆で慌てました。
二日後の19日に無事(骨折はしてたけど)が確認できました。
倒れた家に迫る火の海!
今でもその映像を忘れる事が出来ません。犠牲となられた6434名様の御冥福を心よりお祈り致します。
カセットコンロのガスも阪神淡路大震災をきっかけに規格が統一された。
あるメーカーのカセットコンロと別のメーカーのカセットガスが合わずに避難所で使えないケースが出て来て問題になった。
私の親戚がこの震災にあいました。その中には手術の翌日でした。病院も倒壊していて治療出来ないと言われたらしいです。痛み止めだけで2週間過ごしたそうです。想像を絶する痛みだったと思いますその当時のことを聞くと震災に備えることを考えるきっかけになりました。南海トラフト地震も予想されているのでいざという時の備え、またどこに避難するかをハザードマップで再度かくにんしょうと思います。
阪神大震災の時はテレビで被害の大きさを知りました、その日朝テレビで神戸の街を観て高速道路が横倒しになったり建物が倒壊した衝撃は東日本大震災の経験とともに忘れられないです。
阪神淡路大震災の情報は当時購読していた学習雑誌の特集ページと連日放送されるニュースで見て知りました。
恐ろしさのあまり言葉が出ませんでした。
当時中学1年、まさに兵庫区に住んでいました
近所のトポスは1階が完全に潰れ2階が1階状態、商店街は火の海
そんな中、母の「とりあえずあんたは学校行き」と言われたのがあまりにもあまりだったので鮮明に覚えています
えべっさんでお年玉の入った財布を落とし、なんと全額入ってる状態で警察に届けられていると連絡が入り受け取りに行く予定でしたが
兵庫署が崩壊してしまったので受け取れなかったのも当時の悔しい思い出・・・