【視聴数 493023】
【チャンネル名 岡田斗司夫ゼミナール【オタキング 切り抜き】】
【タグ 岡田斗司夫,切り抜き,オタキング,サイコパス,ゼミ,戦後,終戦,戦争,第二次世界大戦,記念日,物乞い,天王寺,昭和,罪悪感,デパート,レストラン,被害者,繁栄,謳歌,原爆,原子爆弾,広島,長崎,太平洋戦争,ナチス,日本,ロシア,ウクライナ,プーチン,教養,真珠湾攻撃】
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【視聴数 493023】
【チャンネル名 岡田斗司夫ゼミナール【オタキング 切り抜き】】
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昭和46年生まれです。梅田地下街の通路とかも結構多く、母に手を引かれながら何も知らない私はマジマジと見てしまい、母がギュッと私の手を握り「はよ行くよ!」と言って親子だけになった時に「見たらあかん、目を合わせたらあかんよ」と窘められました。成長と共に意味が理解できると何だか胸がモヤモヤした事を覚えています。
私もよく見ました。
母は「ああいう人たちはそれなりの保証を国からされている」といって施しをしませんでしたが、本当にキチンと保証されてるのか?と疑問でした。
実際に隣に住んでたおじさんは兵隊に言って片腕をなくし、大きな家に住んでました。恩給をたくさんもらってると親から聞きました。どこまで本当なのかはわかりませんが。
こう言う話を聞くと、やっぱり平和ボケしたらいかんなと思う。
軍国化に向けて動いてるからまたやるんだろうな
いたいた、そんな人。中には仮病を包帯で隠してる人も含めて。
50年代初めくらいの地方都市の地下道とかにも居ましたが、排除されたのか物理的にきつくなったのかいつしか見なくなりました。
あれって、インチキな人達が居たからね!
48年生れですけど、小学校低学年頃まで地元の祭りになると橋の上に軍服を着た人が義足や義手を横に立て掛け土下座の格好で悲しげな軍歌を流し物乞いしてました。
あたしも凄く可哀想な気持ちで祖父に「あの人可哀想😭」って言うと、大正三年生まれ太平洋戦争でガッツリ兵隊経験者の祖父が「こういう人達は、国から十分過ぎる恩恵や保証を貰っている。なので、こういう人達を助けなくても大丈夫だ」と言われました。
それでも、あたしは楽しいはずの祭りで、そーゆー人を見る度に知らない戦争の恐怖や何とも言えない気分になりました。
戦争とかは関係ないけれど、心身障害を持つ人たちをジロジロ?見るのは失礼だからやめようって学校かどっかで教わったので意識して見ないようにしています。でもそれってダメなんじゃないかって感じしていたのだけれど…実際はやっぱり失礼なのでしょうか?なにかあったときに見ていなかったら助けられないかも知れないし…見るなって言っておきながら助けろって言われたらすごく迷います。綺麗事みたいに罪悪感はないですがとにかく心身障害の人たちにモヤモヤする感じがするときがあります。
私は昭和55年の現在42歳ですが、大阪梅田の大陸橋のところで、同じような傷痍軍人さんを見かけましたよ。岡田さんのお母さんと同じように、親に目を合わせたらアカン、と言われた記憶があります。
岡田さんが私の母と同い年なのにビックリしました。
若いですね!
国は何やってたのかな。
私は38年生まれ。4~5歳の頃に長期入院していて、子供達だけで入院していた平屋の病棟だった。いくつもの病棟が外廊下で繋がっていた。子供達同士でお庭で遊んでいたら、片足の無い大人のお兄さんが(今思えば20~30代くらい)いつも松葉杖で外廊下を走る練習をしていて通りすぎる。私達はその姿を見かける度に「かかし~!おーい、かかし~!💕」と思い切り手を振っていた。お兄さんはいつも笑顔で私達に手を振り返してくれていた。。今はあの頃に悪気もなく酷いことを言っていたなと分かるけど。出来ることなら、あの頃の優しかったお兄さんに謝りたい😢
2001年に浅草の吾妻橋の辺りに居た記憶があります。結構唖然としましたね。
昭和50年代中頃の事ですが、神戸市の新開地駅から湊川公園まで続くアーケード街の中間辺りで傷痍軍人さんをよくみかけましたね。
自分はまだ小学校低学年だったので、何故あの人は道にゴザを敷いて座っているのかを知るはずもなく不思議に思ったのを覚えています。
何故あんな道端に座っているのかを親に聞いたところ、あの人は戦争で手足を失った元軍人さんとの事でした。
その方は、白色の病衣みたいな物を纏い、義足を横に置いて座っておられました。
そして、まともに働けないから仕方なく物乞いをしているのだとも教わりました。
更に、乞食みたいなもんやし、ホンマの傷痍軍人かすら怪しいとも言いました。
その後、いつのまにか傷痍軍人さんを見かけなくなりましたね。
昔の事なので差別的に聞こえると思いますが、ご容赦下さい。
戦時中から配給制というものが有りましたが、その配給制が終わるのは昭和50年代末だったと思います。
高度成長期により国内は豊かになり、戦後からの復興を終えた日本は新時代を迎えたと言われました。
人それぞれで見解の相違は有るでしょうが、昭和末期までは確実に戦争の傷跡や想起させる物事が存在していたんだと思った次第です。
終戦後の価値観が真逆になるほどの社会の激変を経験して現在に至っているのですが、この社会が本来の日本の姿なんですかね。
川口の前川温泉という銭湯には営業時間前に腕や脚の無くなった傷痍さんを優先的に招き入れ、皆さんで助け合って身体を洗い合う姿や、湯舟に浸かりながら笑い合う姿を子供ながらに左腕の無かった祖父を疎ましいとは一度も思ったりしなかった
誰かが不幸だったらみんなで不幸になろうって考えでどんどん幸福の全大量を減らしていくのが得意だよね伝統的な日本文化の考え方は
初めて聞いた現実の話でした
ありがとうございました
手足を失った傷病兵だって、プライベート(?)では普通に笑って、怒って、泣いて、楽しんで生きていたと思うけどなぁ。
アキバにもいたね